1941年3月、国民学校令が勅令として出され、4月1日からそれまでの尋常小学校、高等小学校は国民学校と改称された。 国民学校令は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為目的トス」とした。明治19年以来の「小学校令」と比べると、その変更の意味がよくわかる。「小学校令」では「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」としていた。 そのため、義務教育年限を6年から8年に延長した。子どもは児童・学童でなく「少国民」となった。 初等科では国民科、理数科、体練科、芸能科の4教科とし、女子には裁縫を加えた。高等科では4教科に加えて実業科をおき、各教科に科目をおいた。高等科女子には家事及裁縫を加えた。 この「国民科」はナチスドイツの「国民科」をモデルにしたもので身近な問題を理解させることで郷土への愛情を育て、のちの学年でそれを愛国心へ発展させる仕組みであった。 大阪市ではそれまで市岡第五尋常小学校というように地域名+創立順番号の名をつけた学校が多かったが、国民学校になって大阪市魁国民学校というように地域名をつけた名前に変わった。また菊水国民学校のように旧磯路高等小学校だが、国民学校名には「高等」とつけないため、磯路尋常小学校と名前が重なるので地域名をつけられなかった学校もあった。 敗戦後、「教育勅語」は廃止され、教育基本法と学校教育法にもとづいて今の大阪市立小学校と大阪市立中学校が発足した。「国民学校」は1941年4月から1947年3月までの6年間の存在だった。(「教育勅語」廃止についての国会決議は→こちら) 参考にした本 「日本が「神の国」だった時代」入江曜子 岩波新書 2001 案内人 柏木 功 (责任编辑:) |